グイノ神父の説教

 
B 年

特別な祝い

聖人の祝日


   
主の降誕の祝日
聖家族の祝日
神の母マリア
主の公現

主の洗礼
聖母マリアの被昇天

主の降誕 B年  20201224     グイノ・ジェラール神父

       イザヤ 9,1-6  テトス 2,11-14  ルカ 2,1-14

 コロナウィルスが私たちを寂しさと混乱の中に陥れる時に、神は大きな喜びを味わうように誘います。それはご自分の子イエスの誕生の喜びです。この喜びこそが神に栄光を与え、地上に平和をもたらします。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と羊飼いたちに現れた天使は約束しました。しかし、今日、私たちはどのようにして主イエスの誕生の喜びを歓迎できるのでしょう。

  疑いもなく、自分の弱さと惨めさを認めながら、ベツレヘムの羊飼たちのように、素朴で謙遜であることが必要です。世界の人々に不幸をもたらすコロナウィルスに対して私たちは無力ですので、神が「世の救い主」であるイエスを与えるように切に願いましょう。私たちの将来はどうなるのかを全く想像できないので、神が「世の光」であるイエスを与えるように心から祈願しましょう。不安と恐れが私たちの日常生活を支配するので、神が「平和の君」であるイエスを与えられるように要求しましょう。数か月前から私たちは親しい出会いやお祝い、祭りや踊り、伝統的な行事、あるいは友だち同士の楽しいバーベキューなどの集まりが奪われています。ですから、神が「ご自分の喜びと永遠の栄光」であるイエスを私たちに与えるように強く求めましょう。

 謙遜で、惨めな私たちは方向を失って不安を抱きながら、今夜のミサ祭儀が私たちを新たにし、慰め、強め、救いの恵みで溢れるほどに満たすように大いに希望します。また、ベツレヘムの羊飼いたちと共に、救い主の母であり、私たちの母でもある聖母マリアに向けて祈ります。母マリアが私たちのために祈り、私たちを守り、幼いイエスを私たちの腕に渡し委ねるように願います。有名な「Salve Regina」というラテン語の讃美歌が願っているように、今夜、特に、私たちも「嘆きながら、泣きながらも涙の谷にあなたを慕う。我らのために執り成す方、憐れみの目を我らに注ぎ、尊いあなたの子イエスを旅路の果てに示してください」と願います。

  イエスは、預言者イザヤが告げた「平和の君」です。この平和が「正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられています」(参照:イザヤ9.6)。この平和がまた大きな喜びの泉となり「悪と罪を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教える」(参照:テトス2,12と聖パウロは証しています。与えられた平和によって私たち、すべての天使と聖人の祈りに支えられ、神と共に親しく生きる恵みを受けると同時に人々にも与えます。

  クリスマスは地上に降りてくる天国の喜びです。同時にクリスマスは、喜びと賛美の歌に変えるために神の方へ昇って来る地上の嘆きと苦しみの叫びです。クリスマスは、神ご自身の栄光や平和と喜びを豊かに満たす天と地の交わりです。

 ですから、今夜一緒に声高らかに心より神に感謝を捧げ、イエスを歓迎しましょう。そして、母マリアとヨセフ、またベツレヘムの羊飼いたちと共に深く、静かにこのクリスマスの大きな喜びを味わいましょう。アーメン。

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     聖家族の主日 B  20201227    グイノ・ジェラール神父

     創世記 15,1-621,1-3  ヘブライ11,811-1217-19  ルカ 2,22-40

 ヨセフとマリアはイエスの幼少期を通して、イエスを自分の腕に抱きました。シメオンは、エルサレムの神殿の境内で神が必ず見せると約束したメシアを見て、自分の心に抱きしめることができました。ご聖体をいただく度に、今もこの教会の中で私たちの神であり救い主であるイエスを自分の手に受け、心に納めることができます。この貴重な恵みが与えられている理由は、私たちが信仰によってイエスの家族に属しているからです。

  ヨセフやマリアと同じように、私たちも自分の心の中に成長するイエスを見るように招かれています。そのために、毎日イエスと共に祈ること、イエスの言葉を聞くこと、イエスが私たちに触れることを学ばなければなりません。イエスと共に生きることは、愛と揺るぎない信頼をもってイエスのすぐそばで生きることを意味しています。確かに、愛をもってイエスを仰ぎ見ること、注意深くイエスに静かに聴くこと、信頼の内にイエスの後を歩むこと、そして喜びを抱いてイエスの意志を行うことが、私たちの心を広げ、私たちの魂を拡大させます。それは私たちが天国の賜物と調和するためです。

 ヨセフとマリアは生涯にわたって、イエスの言葉に耳を傾けていました。イエスの言葉を理解できなかった時もヨセフとマリアはそれを心に思い巡らせることを習慣としていました。私たちも聖霊の教え導きによって、福音の最も好きな言葉を心に留め、言葉の内容を長く味わうために、体の奥深くの記憶に刻み込むことが大切です。

  家族は子どもにとって教育と大人の生活への通過の場所です。社会の中で子どもが自分の立場を見つけるように家族は教え導きます。教会も人間の教育と天の命への通過の場所です。神の王国で人が自分の立場を見つけるように、教会は教え導きます。教会とは、私たちが信仰と愛の内に成長する場所です。確かに、私たちが幸せになるために、また私たちが一致や和解、分かち合いや平和の道具になるために、教会は必要不可欠な教育の場として役に立つものをすべて与えます。

 イエスの聖家族と同じように教会も聖なる家族です。今、世界は分裂し、あらゆる悪の力で攻撃され、災い、疫病、戦争、飢饉によって傷つけられ、母マリアと同じように教会の心は苦しみの剣で貫かれています。それにもかかわらず、教会は聖家族と同様に神に希望を置きながら、すべての試練を乗り越えることを学びます。

  今日、特に聖家族の保護の下に安全な避難場を見つけましょう。そして私たち大きな家族を形作るために世界に広がっている教会のために神に感謝しましょう。どんな思いがけない出来事があっても、私たちは「今すでに神の子です」(参照:1ヨハネ3,2)ということをいつも思い出しましょう。また、神の似姿に造られた私たち一人ひとりは実に「神の顔」であることも忘れないようにしましょう。イエスの兄弟姉妹として、ヨセフとマリアの保護のもとで、私たちに注がれている無限の愛のために絶えず神に栄光を与えましょう。神は聖霊の力によって私たちを救い、聖となさるからです。アーメン。

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    神の母聖マリアの祭日  B    202111日  グイノ・ジェラール神父

        民数記6,22-27  ガラテヤ人への手紙4,4-7  ルカ2,16-21

 モーセの時代から神の民を祝福するために大祭司が唱える祈りを、今、第一朗読を通して、私たちは聞きました。この祝福を受ける人が神のみ顔からほとばしる光で包まれ、照らされ、変容されるようにという恵みを願っています。心の中にあるものを人の顔はいつも表し、それによってその人が誰であるかを示します。神が私たちにご自分の心と共にご自分のみ顔を表されるように、あらゆる時代の人々は切に願っています。というのもそのことから神をもっと親しく知ることができるからです。

 聖パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、時が満ちる時、神のみ顔の光が現れたと書いています。この光はイエスの人間としての顔に現れました。「私を見た者は御父を見た」(参照:ヨハネ14, 9)とイエスは証しました。父なる神の光はイエスの顔に見受けられますが、イエスの弟子となった者の顔にも、またこの同じ光が見つけられます。さらに、神のみ言葉の光を自分の心に持つ者、またその言葉を口で宣言する者も「光の子」・「神のみ顔」となります。

 ベツレヘムの羊飼いたちは飼い葉おけの中に眠る子供のうちに、神のみ顔であるイエスを礼拝しました。イエスこそは「世の光」です。幼いイエスの近くにおられるマリアは、イエスの顔の光を自分の心に納めます。そしてイエスについて言われた言葉を静かに思い巡らします。マリアはいつも素朴な喜びを持って、受けた神の光を自分の内に守ろうとしています。

 神の特別な恵によりマリアは神の母となりました。しかし、マリアはその珍しい恵みを毎日、信仰と謙遜の内に体験しそれを受け止めました。すべての信じる人の模範となったマリアは「世の光であり、神の面影であるキリスト」へ向かう道を私たちに示しました。イエス「すべての祝福の泉である」ことを恵みに満ちたマリアは私たちに教えています。今年も、母マリアの保護のもとで教え導かれて、私たちはますます神の光を浴びることができるように希望します。母マリアの日に新しい年を始めるのはとても良い事です。母マリアと共に日ごとに「光の中に神の光を見る」(参照:詩編 36, 10)ことを学びたいと思います。

 羊飼いたちは神を褒め称え賛美しながら帰っていきました。これこそ私たちが日ごとに行うことです。「いつどこでも神に感謝をささげることは、まことに尊い大切な努めです」とミサの典礼は思い起させます。賛美と感謝によって私たちの上に神の祝福豊かに注がれるからです。新しい年が私たちに何をもたらすか、まったく知りませんが神の慈しみの手に委ねましょう。「インマヌエル」である神は、私たちと共におられるので、いかなる疑いもなく、この年は聖なる年、とても良い年です。ですから母マリアと共にこの新年のために神に感謝しましょう。イエスの直ぐ傍で、母マリアと手と手を合わせて、神への命の道であるこの新しい年を聖霊の喜びのうちに安心して歩み続けましょう。 アーメン
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    主の公現の主日   B年  202113   グイノ・ジェラール神父

       イザヤ60,1-6      エフェソ 3,2-35-6     マタイ 2,1-12

 一つの星を通して神はご自身を異邦人に啓示され、ご自分の子を拝むように彼らを誘いました。一つの星を通して神は東から来た占星術の学者たちを福音の良い知らせの宣教師とします。この占星術の学者たちを通して神はご自分の民(イスラエルの民)に約束されたメシアが生まれたことを知らせました。

 いったいこの占星術の学者たちは何者なのでしょうか。きっと、今の北イランのメード人の部族に属し、昔から特別の聖職者の階級カーストとして、彼らは夢の意味を教え、占いをし、時の流れや季節と月に関係のある祭りを定めていました。占星術の学者は空の現象を見て未来を予言して、災い、あるいはよい出来事を教える務めを持っていました。

 しかし、ベツレヘムへ行くことで、占星術の学者たちは、「未来は神の手にある」こと、そして「イエスの誕生は世界の人々に平和をもたらす」ことを発見しました。またイエスを拝むことによって、この占星術の学者たちは「地上のすべての民も神を捜し求めるために招かれている」ことを理解し悟りました。異邦人の博士たちが一生懸命に神の招きに答える一方で、他方エルサレムの博士たちは神のメッセージを受けても何も反応しませんでした。本当なら彼らは他の人々よりも救い主の誕生の知らせ喜ぶはずでした。彼らは預言者ミの預言を知識として知っていても、その教えから具体的な反応を取らずに、自分たちの知識に閉じ込めているだけでした。

 エルサレムの博士たちとは反対に、占星術の学者たちは救い主を見つけるように努力しリスクを背負っていました。なぜなら、救い主を探している時には間違える可能性がありますから。マタイの話は不思議なやり方で、民数記の話を思い起こさせます。モアブの国の悪い王に招かれて遠くから来たバラムという占星術の学者はイスラエルの民を呪うはずでした(参照:民数記 2224章)。しかし、約束された土地に入ろうとするイスラエルの民が祝福されるように神がバラムを教え導きました。モアブの王の怒りを防ぐために、神に守られてバラムは違った道から自分の所に戻りました。

 民数記の話とマタイの話似ています、その教えも同じです。神の救いの暦の流れを収めています。私たちの将来と救いは、既に世を作る前から私たちを愛していた神のみ手の中に安全に置かれています。今日においては、命の道に私たちの歩みを導く星とは、神のみ言葉です。神のみ言葉は「わたしたちの道の光、わたしたちの歩みを照らす灯です」(参照:詩編 119:105)。聖ペトロはこの教えをほかのふうに伝えました。神のみ言葉は「心の中に昇る明けの明星です」(参照:2ペトロ1,19)と。カトリック教会のカテキズムはそれを確かめています。「人となられた神の御子キリストは父の唯一の、完全な、決定的な言葉です(参照:カテキズムNo 65)と。

 星の助けなしには、占星術の学者は御父の永遠のみ言葉であるイエスを見つけることは不可能でした。天使の助けなしには、羊飼いたちはメシアが自分たちの村に生まれたことを知ることも不可能でした。聖書の教えなしには、私たちは信仰に達すること、希望を養い強めることや隣人を愛する理由を見つけることは不可能です。神のみ言葉は 「神が一緒におられるしるしであり、神の忠実は永遠である保証です。」

 ですから、毎日、聖書のみ言葉によって自分の信仰、希望、愛を養い、神に感謝しましょう。アーメン。
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    主の洗礼 B年  2021110   グイノ・ジェラール神父

      イザヤ 55, 1-11     1 ヨハネ5, 1-9     マルコ 1,7-11

 主の洗礼の祝いでクリスマスの季節が終わります。イスラエルの昔の預言者のように、イエスは聖霊の豊かさの印を受けました。救いの使命を果たすために、イエスは父なる神によって遣わされています。この使命は愛に溢れていることを天から聞こえた声が保証しています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。天の声がイエスの本当のアイデンティティを教えています。イエスは神の子であり、父から来ている者、父と親密に一致する者です。

 隠れた生活の30年間の秘められたイエスの秘密は、皆の前で啓示されました。私たちによく似ているイエスは、確かに神の子です。 彼は聖霊で溢れるばかりに満たされているので、私たちも「神の子」となるようにその聖霊を私たちに与えることができます。洗礼者ヨハネは、悔い改めの洗礼、罪の赦しを受けるために自分の方へ来た人々にそれについて証ししました。「わたしは、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる…その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と(参照:マタイ3, 11)

 私たちと同じ人間として、水の中に沈んで洗礼者ヨハネの洗礼を受けたイエスは、水から立ち上がって神の預言者、神に遣わされた者とされました。この洗礼を通して、すでにイエスの死と復活が示されています。この洗礼はまた、イエスこそが神を知らせ、神の命で私たちを生かし、永遠の命に与らせる方であることを教えています。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」この言葉を通して神はイエスとの繋がりを示し、同時に私たちに対するイエスの使命を啓示しました。この使命はあらかじめ預言者イザヤが知らせました。「見よ、かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし、諸国民の指導者、統治者とした』(イザヤ55,4)と。生涯に亘って、言葉と行いによってイエスは人々と共におられる「神の声」でした。

 私たちは洗礼を受ける前に父と子と聖霊である三位一体の神に対する信仰を宣言しました。洗礼によって私たちは神の愛する子供たちであり、神の慈しみと憐れみの証人になりました。キリストに親密に結ばれて私たちはたえず、死から命へ、罪から聖性へ、利己主義から愛へ通り過ぎるのです。聖体拝領よって、キリストの御体と御血をいただいてイエスの神聖に与かっています。確かに、イエスにおいて、またイエスの教会の秘跡を通して、「聖霊の交わりの内に実現されている父なる神と子であるイエスの愛の繋がり」が私たちに与えられています。

 父なる神が私たちに示す偉大な愛のためにキリスト者に尊さが生まれることを私たちは知っています。イエスのうちに現れたこの愛は無限です。愛されることや愛することを承諾することだけが、イエスと神ご自身の神秘を理解する可能性を与えるからです。私たちは信じているからこそ、イエスが聖霊の内に父なる神に注ぐ愛が、今、私たちに注がれています。「キリストの愛がわたしたちを駆り立てている」(参照:2コリント6,14)と聖パウロは証ししています。実にこの愛は、私たちが「神の愛する子供たち」であることを発見させると同時にいつも至る所で、言葉と行いを通して、私たちが自分の信仰を宣言するように誘います。アーメン。

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        聖母マリアの被昇天  B年 2021815日   グイノ・ジェラール神父

          黙示録 11,1912,1-610     1コリント15, 20-27     ルカ 1,39-56

 今日、私たちは永遠の命に生まれた聖母マリアの祝いを大切に祝います。今日、聖霊は天の栄光の光の内に母マリアの事実を啓示します。また、聖霊はマリアに既に与えたすべての恵みに神の栄光の完成を加えます。

 神の恩寵とは、地上で永遠の命に参加しはじめる神からの愛の賜物です。しかし、地上では受けた恩寵は、試練や弱さ、落胆や疑い、また様々な困難を通して成長しなければなりません。母マリアもわたしたちと同じように、このような困難を受けました。エリザベトを訪問した時、マリアは体内にイエスを持つ喜びを大声で宣言しましたが、その後マリアはたくさんの試練を受けました。母マリアはすべてを理解できませんでした。その上、キリストの受難は母としての彼女の心にとって残酷な時でした。ヨハネの世話になってから、マリアは初代教会のキリスト者と共に祈っていました。しかし、彼女の人生の最後については、聖書は何も教えていません。

 マリアの被昇天の出来事はとても古い伝統から来ています。この伝統の証しによると死ぬときに、自分が命を与えたイエスによってマリアの体と魂が天の栄光の内に完成されたということです。Assumptio」「被昇天」と訳されたラテン語の言葉は、皆さんが考えているような「昇天」を意味しません。マリアは神の栄光の内に「完成」されました。言い換えれば、マリアは「愛の完成にまで導かれました」とうことを意味します。東方教会では、マリアの被昇天「マリアの眠り」という名を付けることで「昇天」と混同する危険性を避けています。

 母マリアはイエスに人間の命を与え、今度イエスはご自分の母に神の永遠の命を与えます。「神ははしためであるわたしに目を留めてくださった」(参照:ルカ1,48)とマリアは従妹のエリザベトに打ち明けました。謙遜なマリアは、自分を見て、一度も自慢したことがありませんでした。今日の被昇天の光を通して、母マリアは三位一体の神の栄光の内に自分自身を仰ぎ見るでしょう。私のフランスの教区ではマリアは「三位一体の聖母」「Notre Dame de la Trinité」という名で尊敬されています。自分の死の日から母マリアは、三位一体の神の栄光の内にあって、すべての天使と聖人と共に最も美しい賛歌を歌っています。「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く」(参照:ルカ1,49)と。今日、私たちはマリアと声を合わせて神に感謝します。

 イエスはご自分の母を私たち自身の母として与えてくださいました。天の栄光の内にあってマリアは、母の体と心をもって私たち一人ひとりをとても大切にします。母マリアは差別のない愛をもって、自分の子供たちをありのままに歓迎します。特にマリアは罪びとと神をまだ知らない人のために祈っています。そしてしばしば私たちも一緒に祈るように、また世の救いのために自分たちの苦難と苦しみを捧げるように誘います


 謙遜に母マリアの保護の下に留まることを学びましょう。マリアが私たちの母ですから、彼女に祈ることに対して恥じる必要はありません。罪のない母マリアは、罪だらけの私たちを見ても決して恥かしくなりません。ですから、天の優しい母マリアと共に神に感謝と賛美を捧げたいと思います。なぜなら、いつかマリアの直ぐ傍で、天使と聖人たちと共にご自分の栄光と愛に永遠に参加するように、神が私たちを招いているからです。アーメン。



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